人間の目は都合良く出来ているもので、意識的に見ていないものでもしっかり見ている。
たとえば本屋へ行ったとき。ずらりと並んだ本の列を「ちらっ」と見たその瞬間、
「!」
と目的の本”かもしれない”タイトルの一部を見つけた事がないだろうか? そして「なんとなくこの辺りだったような・・・」という頼りない記憶に従いその周辺を見てみると、自分の目的の内容とは全くかけ離れた、しかし似ているタイトルに出会う。こんな体験はないだろうか。
ドンピシャで欲しい本だったということはまずないのだが、しかしこの人間の目の「目ざとさ」に驚いた経験が一度はあるはずだ。人の目は、これほどの能力を、何の訓練もなく秘めている。
■ 「なんかイヤ」という感覚
週末の家族サービスで、ある大手スーパーに行くことがある。しばらく歩いて、フードコートで休憩をする。嫁さんが僕の好物のフライドポテトを買いに行っている間、息子と場所を確保して待っている。
実は僕はそのフードコートが大嫌いだ。人は沢山いる。店も活気がある、一見清潔そうに見える。しかし僕は何かに拒絶反応を起こしている。確かにどこか居心地が悪い。
その原因をよく観察して分析してみると、天井のスミにある吹きだまりのわずかなホコリが空調の風でゆれていること、汚れが噛み込んで黒い筋になった床の擦り傷、クッションの潰れたイス、テーブルの上に飛んだラーメンの飛沫が乾燥し固まった脂分が清掃されていないことだったりする。これらは僕が意識する前に、目が先に見て『なんかイヤ』と思わせている。
■ そんなのコジツケじゃないのか?
人に話すとそういわれる。コジツケというのは、ある出来事をありもしない理屈で説明しようとすること。僕の不快感はそれではないと思っている。
ここ十数年自分の感覚や無意識に敏感になるよう心がけてきた。例えば映画で感動すれば、「この映画のどこに感動したのか。どんなプロセスで感動させられたのか。自分の経験と照らし合わせた感情から生まれる”僕だけの感動”なのか?それとも”一般的に広く感じられる普遍的な感動”なのか?」これらを一々言葉で表現することで分析している。
前出のフードコートも同じことだ。僕はそこへ行き、確かに「なんかイヤ」と思い、なぜイヤだと思ったのかを追及した。その結果が特別意識していなかったホコリだの傷だのが及ぼす影響だと分かった。自分の部屋の壁にかかった絵が、何回水平にしたつもりでも、見るたびに傾いているような気がするのは「なんかイヤ」の好例だ。
■ 不快感の法則
不快感は単純に苦痛からくるものではない。例えば次の画像を見てほしい。
単純に細い線が2本平行にならんでいるだけで、不快感は感じない。しかし、その次の画像はどうだろう? なんとなく不快感がないだろうか。
画像では、最初と同じく細い線が2本平行にならんでいるのだが、上の線がわずかに右下がりに傾斜している。これだけの違いで、人間は不快感を感じるのだ。
■ 不快感の法則 2
次に、もう一つ例を見てほしい。最初の画像は、同じ幅の線が秩序正しく並んでいて、とても清潔感があるのがわかると思う。
次の画像はどうだろうか?
左右が揃っておらず、しかも間隔もバラバラ。安定感に欠け、見ているだけでハラがたつ!
■ 「微妙さ」に気づいたら
このように「微妙さ」が意識されるほどであれば、これはもう微妙を越え、大きな違いとして頭に入っている。人間の目は、この意識できる微妙さよりもっと深くまでを常に見ているのだ。しかも、微妙さの中でも「乱調」には特に敏感に反応するのが人間の目。
この乱調をあえて宣伝広告に使い、お客さんの無意識に訴える手法もあるのだが、最初の例に立ち返り「お店」を見た場合、不快感しか呼ばないのは分かってもらえるだろう。
■ 何にでも応用すべし!
これまでの話は、なにも「店舗や会社を掃除してください」なんて薄っぺらな話ではない。何にでも応用がきく。
例えば、プレゼンテーション書類の作成。文章を書くとき、一コマのずれを執拗に調整する人がいる。この努力は正しい。左側の空白を規則正しく取る事で、すっきりした印象になるのは間違いない。それが相手に「快感」を与え、書いた人への信頼に繋がる。
長文を書くときは、適当な所で1行開けてみる。そうすることで、リズムが出来、読みやすくなる。ベタでボリュームのある文章を読むより、理解度も格段にあがり、採用度が高くなる。これも、やたらめったら空白を作ったのでは、今度は空白がうるさくなり逆効果。
きわめつけは、出力にも気を使うこと。出力はレーザープリンター、または、レーザーに迫る性能の新型のインクジェットプリンターで行うべきだ。古くて印字能力の低いインクジェットプリンターで出力した文書は、文字の「微細な」にじみが気になる。長い文章であれば、印字の質の違いはてきめんに「快感・不快感」で現れる。(ハリウッドでは、不鮮明なプリンターで印刷された場合、シナリオ選定の試し読みから外されることもある。一日中読む”読み屋”たちの身になって考えたら当然だ)
■ 人間の性質は変わらない
技術が進歩しても、教育レベルが高くなってもこれは変わらない。特別な訓練をした人なら別だが、その人達は「性質を抑える訓練」をしたのであり、性質を変える事に成功したわけではないと言える。
変わらないのだとすれば、商売人としてはそれに合わせるのが近道だ。仮に飲食店であれば、テーブルの並び方を秩序正しく直す、剥がした壁のポスターを固定していたテープのカスはしっかり剥がす、微妙に残った食べこぼしのシミがついた座布団カバーを交換する。これらのことをするだけで、お客さんが店にくる体験がより快適になることは間違いない。自分でやれば、お金も一切かからないし、効果的だ。
しかし既に「汚い店」の固定イメージをつけられてしまっていると、効果を期待するのは難しいと言わざるをえない。
人間の「無意識の視覚」をあなどってはいけない!